史上初の“緩まないネジ”を生んだ道脇裕。そのひらめきの源泉とは?
斬新なアイデア・ひらめきをきっかけにイノベーションを起こした人たちにフォーカスするインタビュー企画。今回ご紹介するのは、ねじ界のイノベーターだ。
ねじが生まれて2000年。これまで不可能とされてきた“緩まないネジ”を発明し、イノベーションを起こした日本人がいる——。道脇 裕。世界的にも大きな注目を集めているこの“緩まないネジ”=「L/Rネジ」は、1本のボルト上に右巻き・左巻きの異なる山を刻んで成る特殊なネジ山構造を、ネジ山としての強度低下を来すことなく実現した画期的な構造で、2つのナットが向き合い、ぶつかりあうことで"緩まない"を実現した。
しかし、この画期的な“緩まないネジ”は道脇の発明のほんの一部に過ぎないという。実に1時間にひとつ、1日に約1ダースぶん、幼少期から現在までに2万件以上もの発明を生み出し続けている彼の、アイデアの源泉を探った。
緩まないネジのアイデアは数秒で浮かんだ

「いちばん最初に“緩まないネジ”のアイデアを思いついたのは21年前。当時クラシカルな愛車、簡単に言えばオンボロのクルマに乗っていて、ある年、3回のアクシデントに見舞われたんです。そのひとつがタイヤの脱輪で……。夜中、近所を走行中に突然ハンドルが取られたかと思ったら、隣をタイヤが猛スピードで疾走していった。車体とタイヤというのは、車体側にあるハブという部品から生えた5本のボルトで固定されているのですが、そのボルトの1本が折れてしまっていたのです。残りの4本は残っていましたが、1本が折れた影響で負担がかかって、すべてのナットが緩んで外れてしまったようでした」
そのときは単に「ねじって本当に緩むものなのだな……」という感想を抱いただけだった。
「数日後に、『ねじとは緩むもの。緩まなくするのは不可能で、永遠のテーマだ』という話をたまたま聞きました。そのとき『なぜ不可能と言えるの?』『不可能が証明されたのか?』と疑問に感じ、その場で“緩まないネジ”の仕組みを考え出しました。理論的には、この構造なら緩まないだろう、と」
それが19歳。しかし、それ以上“緩まないネジ”の実現に向けて動くことはなかった。なぜなら、発明は彼にとって「いつものこと」だったからだ。
「ほかの発明でも同様ですが、頭の中で解決すると半分興味を失ってしまうことが少なくない。次を考えるほうが楽しいのでしょうね。よく『趣味が発明なんですか?』と聞かれることがありますが、趣味ではないし、仕事とも違う。思考のクセみたいなもので、とにかく勝手にあふれ出てくるのです、1日中。それが子どもの頃からずっと続いています」
これが道脇の特異な発明スタイルだ。“緩まないネジ”にいたっては、わずか数秒で出てきたという。「思考のクセ」と言うが、それは"考える"プロセスというよりは、むしろ"直感"に近い結果が先に出てくるようだ。
「僕自身、昔から自分がどうやってアイデアを思いつくのかずっと考えてきましたが、ロジックとして説明できるモノもある反面、説明困難なモノも少なくない(笑)。人工知能の高度化を図るうえで、この思考過程を解明することは、多分に価値があることだと思い、優秀な社内メンバーを入れてディスカッションをしてもやはりわからない謎が残る」
新たな発想を次々と生み出し続ける道脇だが、発明に対し、悩むことがないかといえばそういうわけでもない。
「アイデアをもっと精鋭化して実現させる過程には、数多くのハードルがあります。たとえば、コストの壁や納期、ニーズの有無、規模の不完全情報性、検査装置の分解能の限界、製造工程における加工装置の精度の限界……。ひとつのモノゴトを実現させるには、物理的、社会的、経済的な制約条件下において実現可能な最適解をロジックとして考える必要があります。それは、悩むというよりは楽しみなのかも知れません。わくわくしながらパズルを解いていく感覚」
7年を要した緩まないネジの実現
そもそも“緩まないネジ”は一体、どんな仕組みなのか?
一般的にねじには、らせん状の溝が刻まれており、ねじ山とナットの内側を密着させ、その摩擦力で締結する仕組みになっている。しかし、振動や衝撃などにより、やがては緩むという宿命にある。そこで道脇は、そのらせん構造を変えた。“緩まないネジ”のボルトには、右巻きで締めるナットと左巻きのナット、それぞれに対応した山が刻まれている。つまり、特殊な三次元ネジ山構造を持つ1本のボルトに、違う動きをする2つのナットが入っているのだ。この特殊な構造のボルトに、右巻きナットと左巻きナットを締め込み、互いにロックさせる。2つのナットは相反する動きとなり、互いがぶつかると、相手をさらにロックする作用が生じる。これによって緩みを完全に封じる仕組みになっているのだ。

「L/Rネジ」の基本ロック原理
左回転の場合、2つのナットが互いにぶつかり合う
文字にしてしまえばわずか数行だが、2000年の歴史を持つといわれるねじの構造的な欠陥を根本的に解決し、“緩まないネジ”を発明・実現したのは道脇が世界で初めてなのだ。
“緩まないネジ”がカタチになるまで

「緩まないネジのアイデアを具現化しようと動き出したのは、タイヤが脱輪してから10年近く経った2006、7年頃です。当時は、留学先から帰国したあと、7、8年間にわたって家にこもって1日中、それこそ寝ている時間さえも数学の研究をしていました。とくに自然数の構造と性質についての研究と題し、素数の研究にいそしんでいたのです。それが、いったん区切りがついたので、そろそろ社会に出ていこうかなという感じでしたね」
道脇が数学で"遊んでいた"数年間にわたって、粘り強く発明の事業化を道脇に勧めていた人物の助力もあり、2009年に株式会社NejiLawを設立する。
「思いつくまま200個くらいのアイデアについて説明し、議論をして、そのなかでいちばん世の中へのインパクトが大きいのではないかということで、まずは“緩まないネジ”を進めることになりました。
でも、当時は支援者を含めても、誰もネジの構造を理解できていませんでした。紙粘土でモックを造ってもわからないという状況は変わらず、ねじ屋さんに協力を仰ごうとしても『そんなもんできるわけがない』と門前払い。僕の頭の中では完成していたのですが(笑)。
結局、ツテをたどって金属加工屋さんにお願いして……といっても特許の関係もあってノウハウを全部お伝えするわけにもいかず、必要最小限の情報を出してなんとか作ってもらい、ようやく『本当にできるんだね』となりました」
数秒で思いついたアイデアだが、実現には7年もの期間を要した“緩まないネジ”の開発。その用途は工場内など大型の機械製品に使われているほか──守秘義務契約があるため、いまは明らかにできないが──2018年頃には誰もが知る商品に採用されることが決まっているという。
「これはもう無理だと思って」
小学校5年生のときに自主休学
考えるというよりは"出てくる"。悩むというよりは"楽しむ"。こうして幼少期から続けられてきた特許案の数は2万件以上にもなった。こうした道脇の発想の原点はどこにあるのか? その片鱗は小学校時代に垣間見える。自ら小学校を休学したというのだ。
「学校の授業は拷問みたいな感覚でした。先生からの説明がなくても教科書にほとんどすべてが書かれていて、その内容は1週間ほどで授業時間のなかだけで終えてしまう。すると、そのあとの1年間は時間が余るわけですが、椅子に座り続けなくてはならないわけです。これが苦痛で、隣の子にちょっかいを出したり、席を立って歩いたり、教科書全ページを迷路やパラパラ漫画にしてしまったり……。とにかくヒマでヒマで1秒が永遠のように感じていたのです。これはもう無理だと思って小学校5年生のときに、自主的に小学校を休学することにしました」
勉強が嫌いだったわけではない。
「当時は、10歳そこそこの子供ということもあって、具体的にはなにを変えればいいのかはわかりませんでしたが、自分の感覚とは明らかに異質な当時の学校教育システムから先ずは降りようと(笑)」
そこで、道脇少年がひとまず向かった先は、大学教授を務める母親の研究室だった。
「実際にはもっと小さい頃から通っていましたが、小学校に通うのを辞めたので、そこにいる時間が自然と長くなりました。母は物理学の教授で、化学と物理の境界領域などを研究していたので、電子顕微鏡からビーカー、薬品類まで、理科の実験装置がひと通り揃っていたのです。それらを駆使して、モーターを作ったり、電気分解の特殊な装置を作って新しい現象を発見したりと、自分なりにいろいろと実験や工作をしていました」
とび職人に漁師。なんでも体験した

そして、なによりも道脇の発想の源泉とも言えるのが旺盛な好奇心だ。
「なんでもやってみて、体感的に感じて考える。たとえば、硫酸や塩酸を使って実験をすると、銅を入れたらこれくらい溶けるけど、金は溶けないなっていう感じで、いろんなことを体験していた。ですから、僕の知識の多くが体験からきていると考えられます」
体験欲とも呼べるその貪欲な姿勢は、少年時代のさまざまな職業遍歴にもあらわれている。
「そもそも、うちは貧しくてお金がない家なのだと思っていました。当時住んでいた家はとても狭く古い長屋で、室内にいろいろな虫やら生物やらがいるような環境だったのです(笑)。そのため、自然と家計を助けなければという気持ちが芽生え、新聞配達をしたり、近所の商店街を回ってポスティングの仕事をもらってきたり……。とび職人や漁師もやりました。なんでも自分でやってみないとわからないわけです。
世の中を知らずして、どういう方向に向かえば自分がイメージしている未来に添うカタチになるか、それすらわからない。それならば、いろいろな世界に飛び込んでみるのがいちばんであると」
それは、さまざまな経験を通じて、自分が生きていく道を探すということだろうか。
「生きるとはなにか。なんのために生きているのか、ということは3歳くらいからずっと疑問に抱いていました。地球くらいの隕石が落ちてきて、みんながシュッと消えてしまえば、痛みも苦労も悲しみもないからそれがいちばんラクでいいんじゃないか、とか。極論を考えてみたりしたものの、現実としてはみんな存在して苦しみもがきながらも生きている。それでは、一体なんのために生があるのか、また死があるのか。生と死の境界線はなんなのか。生物と無生物の狭間はどこにあるのか。このように考えていくと、はてしなく疑問が出てきて、その答えを考える。考え続けるうちに、いろいろなことに気が付く。気付きを増やすうちに興味が湧き広がっていく。
教科書に載っていないことは誰も教えてくれない、誰も教えられない。だからこそ体当たり、手探り。前進しているか後退しているのかもわからない状態で飛び込んでいくしかない。それでも感覚を信じて行くべきところはとことん行く、そうすると、ある境界線が見えてくる。この一線をわずかでも越えてしまったなら戻ってこられなくなるという一線が。その先に未来があるわけじゃないってことが僕には感じられる。そういうことを多方面で追求して、感じて、境界線をつないでいって、在るべき領域を見出していきつつ、10代を過ごしていました」
手放せないもの、
「レモンティー」と「FRISK」
実は、道脇には手放せないものが2つある。「レモンティー」と「FRISK」だ。どちらも"アイデアのひらめき"に大きく関わっている。
「レモンティーは水分補給と糖分補給、カフェイン補給、ビタミンC補給が合理的にできる飲み物だからというのが理由です。毎日頭を使っていると糖分が不足するし、液体の方が吸収が早く即効性がある。もちろん味も好きですね。よく驚かれますが、1日10本くらい飲みます。
FRISKは、以前、鼻炎がひどかった頃に鼻の通りをよくしたくて食べ始めましたが、気道がスッキリするうえ、呼吸もさわやか、おまけに眠気覚ましになりますので、今ではなにか考えるときや運転するときなどは欠かせない存在になっています。フレーバーはずっとペパーミント。
オリジナルの白くて小さいのを食べていたときは、ごっそり手に取ってボリボリ噛んでました。FRISK NEOは粒が大きくなったので、さすがに噛みませんが、それでも3〜5粒くらいを一気に口に入れることが多いですね。1日1ケースくらい食べるので空き缶がものすごく溜まっちゃって(笑)。最初はクリップ入れに使っていたのですが、そんなにたくさん入れるものがないので、なにかに使えないかなあって考えたりも」
そしてアイデアの源泉に迫る

発明家・道脇 裕のアイデアの源泉は、10代までの経験から導き出されているともいえるのかもしれない。およそ凡人には真似できない境地だが、彼が考える"アイデアをひらめく秘訣"を訊ねた。
「これは僕自身の経験や体感の中から抽出され、概念化されて言葉になったものですが、『ものごとは肯定的に批判しなければいかん』ということ。ここでいう批判は、批評して判断するという文字通りの意味です。要は分析的に考えようということで、否定という意味合いはありません。とかく人は他人のアイデアを否定したがるようなのですが、相手はそれを一生懸命考えているわけですから、否定から入ると人間関係だって悪くなる。自分から出てきたアイデアでさえも『こんなのダメだよね』って自己否定してダメにしてしまう。
他人の意見も自分の意見もまずは肯定的な立場に立って、いったん受け入れてみる。まずは受け入れなければ始まらない。それから客観的、分析的に考えていって、そのうえで間違いがあれば正せばいい。アイデアは、そういった思考錯誤の積み重ねから生まれてくるものだと思います。まずは行動しないとなにも始まらない。ダメならダメで、行動したなら納得もできますし」
そう語る道脇の表情が、10代の頃、さまざまな世界に飛び込み、数々の境界線を観てきたエピソードとオーバーラップする。
「そういう意味では10代の頃と変わっていないのかもしれません。ダメだって直感的に思ってもいったん受け入れて、本当にダメかどうか、なにがどうダメなのかを検証してみるということを人生で繰り返してきましたからね。やる前からダメだっていう人が多過ぎる気がします。『ものごとは肯定的に批判しなければいかん』。おこがましいのですが、これは僕の遺言と思っているいくつかの言葉のなかの最大級のひとつです」
道脇 裕
株式会社NejiLaw 代表取締役社長
みちわき・ひろし/1977年、群馬県生まれ。理系研究者の家系に生まれ育ち、小学生のときから大学教授であった母親の研究室で実験に没頭する。小学校5年生で自主休学。さまざまな職業を経験し、96年に“緩まないネジ”を考案。2009年、株式会社NejiLawを設立し、“緩まないネジ”「L/Rネジ」を開発する。これまでの特許案は2万件を超える。
text:FRISK JOURNAL
photo:清水健吾